苦労と価値
さっき90歳までいきたおばあさんのエッセイ読んでてふと思ったので覚え書き。
経済的な価値がどこからきたのかという話で、歴史的な話をすれば価値とは古くは食料との交換可能性で、需要と供給で決められるものだった。
近代では金といった価値のあるものとの交換可能性を実際に担保していたことからもこの考え方はある程度正しい。
他方、仮想通貨の世界でProof of Workというものがある。これは、とても膨大な苦労(計算)を払ったためにその対価に苦労分の価値があるという考え方となっている。
これは、違う価値の解釈で自明ではないけど説得力があるように感じる。
検討はしていないが、後者の話は前者の食料との交換可能性の議論に乗せるのであれば、需要と供給で交換可能性を決定するのではなく、それに払う苦労、もしくは労働量に対して等価といっているようにみえる。
(ここで留意が必要なのは、この考え方では改善による生産性向上はなにも考慮されないことと、苦労の中身が現実世界においては主観的になること)
さて、ここまでは前提で、そのエッセイでこんな内容があった。
- 昔は井戸から引き上げて水を汲んで選択していた
- 手押しポンプができて便利になったと喜んだ
- さらには蛇口をひねれば水が出るようになった
- ところが、今は水道が止まったらクレームの嵐で、昔は汲んでたんだよといっても理解してもらえない
この話を見て、これは苦労に価値を見いだす直感的なモデルではないかと思った。
なにかというと、
- 手で汲む苦労を知っていた人からすると、蛇口から水が出る価値は大変大きいように見える
- 蛇口から出るのが当たり前の人からみると、蛇口から水を汲むことに苦労はなく、水が出ることはほぼ無価値なことに見える
それだけ。おしまい。