ねこありすのひび

めんへらねこありすがざつなぶんしょうをかきます。かちはないです。

かこはふりかえらない!

過去を振り返らずひさしぶりにかいた!ほめて!

 

というのもtwitterで日記を書くっていってたひとがいたからおもいだして....

 

今日は人の相談事を聞いた。ちょっとほめられたのでうれしかった。

 

いまはねれない日々が続いているからねるのあきらめて淡々と作業してるところ。

いばしょ

はい。わたしです。

 

今回も居場所を得られなかった気がする。

 

なんでなんだろう。わたしはいくあてが残っているわけでもないのに。

 

被害妄想であることは承知だけど、みんな一線引いていて、ともすれば嫌われていると思ってしまう。

 

ここ10ねんほど、がんばってもどこかの集団の外側だったり、そとだったり。どこかのなかにいれてもらえたことがない。

こんかいもそんな気がする。

 

どこにいけばいいの?なんでだれもなかまにいれてくれないの?

 

ただ、ふつうにわいわいして埋没できるような人間になりたかった。

 

嘆いても仕方ないのは分かってるけど、今日は嘆きたい。さみしい。

いえない苦しさ

好きな人を傷つけるという話がありまして。

 

そうすると、書きたいこととか書けないなぁって、ここ何年かできないことがふえていって。

 

だからここを作ったから、ここでは誰に何を言われても、すきなことをかく。

 

ということを、さっき書いて下書きに投げ捨てた文章のおわりにかきたくて、でもきっちのほうが重要だよねっねなったから書いた。

 

きんろう

はたらきはじめた。

 

書きたいことはいっぱいあったんだけど、疲れて寝たら忘れちゃうから、全部流れちゃった。

とはいえ、それでこれから書けないと困るから気軽に書くためにもかく。

 

知ってたけど、時間がない。スマホの通知を消化する時間さえない。こまった。

厳密にはちゃんと時間詰めれば消せるけど、心を動かす余裕があるほどの時間がない。

仕事になれてないから、頭がぜんぶ仕事にもってかれているのはあるけど、純粋に帰ってからの自由時間が3時間くらいしかないのがつらい。

 

そう思うと、本を読むためにも細かく時間をつめるのもそうだし、なにかするのに使う時間しかなくなっちゃうから、大変。

ほんとうにこのままやっていくのかなぁとちょっと思う。

 

でも、この前ずっとフリーランスやってるおじさんと話して、そもそも休みって感覚もないし妻との時間もスケジュールしてとってるよといわれた。

そういう生き方もあるらしい。

 

わからない。生きるってなんだろうね

 

苦労と価値

さっき90歳までいきたおばあさんのエッセイ読んでてふと思ったので覚え書き。

 

経済的な価値がどこからきたのかという話で、歴史的な話をすれば価値とは古くは食料との交換可能性で、需要と供給で決められるものだった。

近代では金といった価値のあるものとの交換可能性を実際に担保していたことからもこの考え方はある程度正しい。

 

他方、仮想通貨の世界でProof of Workというものがある。これは、とても膨大な苦労(計算)を払ったためにその対価に苦労分の価値があるという考え方となっている。

これは、違う価値の解釈で自明ではないけど説得力があるように感じる。

 

検討はしていないが、後者の話は前者の食料との交換可能性の議論に乗せるのであれば、需要と供給で交換可能性を決定するのではなく、それに払う苦労、もしくは労働量に対して等価といっているようにみえる。

(ここで留意が必要なのは、この考え方では改善による生産性向上はなにも考慮されないことと、苦労の中身が現実世界においては主観的になること)

 

さて、ここまでは前提で、そのエッセイでこんな内容があった。

  • 昔は井戸から引き上げて水を汲んで選択していた
  • 手押しポンプができて便利になったと喜んだ
  • さらには蛇口をひねれば水が出るようになった
  • ところが、今は水道が止まったらクレームの嵐で、昔は汲んでたんだよといっても理解してもらえない

 

この話を見て、これは苦労に価値を見いだす直感的なモデルではないかと思った。

なにかというと、

  • 手で汲む苦労を知っていた人からすると、蛇口から水が出る価値は大変大きいように見える
  • 蛇口から出るのが当たり前の人からみると、蛇口から水を汲むことに苦労はなく、水が出ることはほぼ無価値なことに見える

それだけ。おしまい。

 

事実と創作と

何かを書きたいと思ったけど、なにを書こう。

 

さっきまで、芥川龍之介或阿呆の一生を読んでいた。感傷に浸っている、というのが今の状態の気がする。

 

さっきからぼーっと窓の外を見ていて、そういえば人の観察の仕方もしらないなとふと思った。どこ見ていても、失礼になりそうだし、勝手にすればいい気はするのに。

 

話を戻して、これまでのことを振り返ると、私が何か出来たときというのは、なにか創作物に強く心を動かされたときのような気がする。

こんなことを考えているのは、私は結局なにができるのだろうと、なにもできていない現状を省みていたからだけど。

 

美術館でも回ろうか

 

文章書くの難しい

どろどろしたよくぼう

タイトルだけ昨日付けたのをつかいまわす。

 

くるしい。

なにがって、きもちがせいぎょできないことが。

 

すぐに人のことを好きになって、壊れたように好きになって、好きで好きで関係を壊しそうになる。

距離のつめかたがわからないのに、ありすの欲望はひたすら好きを連呼する。

欲望のままに動いたら、捨てられるのに、答えはわからず、ただ欲望を押さえつける。

何度も捨てられたからこわいし、好きな人を困らせたくないし、ぐちゃぐちゃになる。

 

でも、この病的な欲望はいずれ消えてまたアリスを裏切る。アリスの罪がまた増える。

 

なにをかけばいいんだろう。吐き出したい気持ちはたくさんあるけど、(ことばがない)。

 

罪を重ねることにした。本心なのか演技なのか、よくわからないけど。

一番の欲望はたぶんさみしいで、好きはさみしいといっしょになってどんどんアリスを狂わせる。好きな人にどんどん依存して負担を与えてしまう。

本当はもう一つ大き欲望があって絶対嫌われるからここには書かないけど、それも混ざってアリスをめちゃくちゃにする。

 

アリスはどうしたらいいのだろう?

望んではいけないけどたすけてほしいと望んでしまう。それは寂しさを埋めてほしいとかではなく、この地獄から、好きから始まる狂った欲望に焼かれて、相手に負担をかけすぎて相手にも嫌われるこの地獄からだれかたすけてほしい。

 

そんな妄言